あの日、校庭の隅で、私は突然殴られた。
理由は「生意気だから」だった。
けれど、何が生意気だったのか、今でもよく分からない。
ただ、頬に残った痛みよりも、「自分は人からそう見られているのか」という戸惑いのほうが、深く心に刻まれた。
その日の帰り道、私はいつもより遠回りをして帰った。
誰にも会いたくなかった。ランドセルの紐を強く握りしめながら、俯いて歩いていた。
家に着いても、そのことを誰にも言えなかった。
ただ、何事もなかったかのように振る舞いながら、胸の奥に重たいものを抱え込んだ。
もともと私は引っ込み思案で、意気地なしで、怖がりな子どもだった。
教室では手を挙げることもできず、当てられると顔が真っ赤になり、声が震えた。
走るのは速く、運動会の徒競走では一等賞が定位置だった。、
幼いころ犬は怖かった。近所の家の前を通るたびに、鎖につながれた犬が吠え、私はそのたびに心臓が縮む思いをした。
道を変えて帰ることもあったほどだ。

柴犬
そんな私を見かねてか、ある日、父が一匹の柴犬を連れて帰ってきた。
まだ小さく、丸い目をした茶色の犬だった。
「クマにしよう」
父がそう言った理由は、今でも分からない。ただ、その日から我が家に「クマ」がやってきた。
最初の数日は、近づくことすらできなかった。
庭の隅でじっとしているクマを、家の中からそっと眺めるだけだった。
ある夕方、父に促されて餌をやることになり、震える手で器を差し出した。
クマはゆっくりと近づき、静かに餌を食べ始めた。
その様子を見て、少しだけ安心した。
それから少しずつ距離が縮まった。
学校から帰ると、クマがしっぽを振って迎えてくれる日があった。
ある日、勇気を出して頭を撫でてみると、クマは嫌がることなく、むしろ気持ちよさそうに目を細めた。
そのときのぬくもりは、不思議と私の中の何かを溶かしてくれた。
一度、近所の子どもたちと遊んでいて、またからかわれたことがあった。
言い返せずに家に帰ると、クマがいつものように寄ってきた。
私は思わずその首に顔を埋めた。
クマは何も言わず、ただ静かにそばにいてくれた。
その沈黙に、どれだけ救われたか分からない。
それでも、小学校での出来事は消えなかった。
人の視線が怖くなり、「また何か言われるのではないか」と考えてしまう。
言葉を選びすぎて、結局何も言えないまま終わることが多かった。
中学、高校と進んでも、その性格は大きくは変わらなかった。
ただ、数は多くなくても、気の合う友人ができたことは救いだった。
放課後に一緒に帰りながら、取り留めのない話をした時間は、今思えば貴重なものだった。
社会人になってからも、その傾向は続いた。
会議で発言を求められると、頭が真っ白になる。準備していた言葉も出てこない。
声は震え、自分でも何を話しているのか分からなくなる。
発言が終わると、しばらく心臓の鼓動が収まらなかった。
一度、上司から「もっと自分の意見を言え」と言われたことがある。
その言葉が正しいことは分かっていても、どうすればいいのか分からなかった。
ただ、自分はこのままでいいのだろうかという不安だけが、静かに積み重なっていった。
結婚し、子どもが生まれ、生活は忙しくなった。
父親としての責任を感じながらも、どこか自信のない自分がいた。
そんな中で、35歳を過ぎた頃から、少しずつ変化が訪れたように思う。
仕事の内容が変わり、人前で説明したり、会議で発言したりする場面が増えていった。
最初は相変わらず苦痛でしかなかった。
前日の夜になると憂鬱になり、何度も話す内容を頭の中で繰り返した。
それでも本番になると緊張し、思うようにはいかなかった。
それでも、避けて通ることはできなかった。
何度も経験するうちに、ほんのわずかだが慣れが生まれてきた。
うまく話そうとするほど言葉が詰まること、
逆に「伝えよう」と意識したほうが、少しだけ楽になることに気づいたのもこの頃だった。
そして50歳を過ぎる頃には、その機会はさらに増えていった。
以前ほどの強い恐怖はなくなり、相手の顔を見る余裕も生まれてきた。
言葉を選びすぎて黙り込むのではなく、多少ぎこちなくても話してみる。
その積み重ねが、少しずつ自分を変えていったのだと思う。
そんな頃、単身赴任中のある夜、娘から電話があった。
「犬、飼いたいな」
「いいよ。」と答えた。

ビーグル子犬
次の休みに帰宅すると、小さな犬がこちらを見上げていた。
その目を見たとき、幼い頃のクマのことが、ふと蘇った。
その犬は、やがて我が家の一員となった。
帰省するたびに、その犬がしっぽを振って私を出迎えてくれた光景は、今でも忘れられない。
家の中に、再びやわらかな時間が流れ始めた。
娘が独立して家を出た後も、その犬は私たち夫婦のそばにいた。
朝夕の散歩、何気ない日常、テレビを見ているときに足元に寄り添ってくる温もり。
そのすべてが、心を穏やかにしてくれた。
3年前、その犬は静かに息を引き取った。
見送ったあと、ふと気づいた。
私は、いつの間にか人と話すことを恐れていなかった。
職場でも、自然に言葉が出てくる。
気がつけば、自分から話しかけている。
あれほど苦手だったことが、今では楽しささえ感じるようになっている。
あの校庭で殴られた少年は、いまだに私の中にいる。
怖がりで、声を出せなかったあの頃の自分だ。
けれど同時に、クマに触れたときのぬくもりを知った少年もいる。
そして、長い時間をかけて少しずつ変わってきた自分もいる。
人は、ひとつの出来事だけで決まるわけではない。
いくつもの記憶や出会いが、ゆっくりとその人を形づくっていくのだと思う。
67歳になった今、私はようやく、人と向き合うことを楽しめるようになった。
あの頃の自分に、こう言ってやりたい。
「大丈夫だ。時間はかかるが、ちゃんと変われる」
そしてもう一つ。
「オヤジ、クマを、ありがとう」と。


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