春の気配が少しずつ濃くなり始めた今年3月、私は西九州の温泉を巡った。目的はただ一つ、湯の“肌ざわり”を確かめること。中でも印象に残ったのは、有田温泉の、ねっとりと肌にまとわりつくような泉質だった。
最初に立ち寄ったのは、椎葉山荘。山あいの静けさの中に溶け込むように佇む宿で、川のせせらぎが絶えず耳に心地よい。露天風呂に浸かっていると、隣にいた地元の男性が「ここはね、水がやわらかいけん、長く入っても疲れんとよ」と話しかけてくれた。確かに、湯はするりと肌になじみ、時間を忘れてしまう。湯から上がると、まるで身体の角が取れたような感覚が残った。
次に訪れたのは、波佐見の山里、川のそばにある湯治楼。こぢんまりとした温泉で、どこか懐かしさを感じる場所だ。受付のおばあさんが「今日はちょうどいい湯加減よ」と微笑む。その言葉どおり、やわらかな湯が身体を包み込む。湯船で一緒になった常連の方が、「ここは地元の人しか知らんけん、ゆっくりできるやろ」と教えてくれた。観光地の賑わいとは違う、日常の中にある温泉の良さを感じるひとときだった。
温泉巡りの合間には、食もまた楽しみの一つだった。よこ長でいただいた名物の湯豆腐は、やさしい味わいが身体に染み渡る。隣の席に座っていた地元の女性が「ここのはね、豆腐がとろとろになるまで煮るとがコツよ」と教えてくれた。言われた通りにすると、口の中でほどけるような食感に思わず頬が緩む。
波佐見では、清旬の郷でランチをとった。自家製ハンバーグは肉の旨みがしっかりと感じられ、焼きたてのピザは香ばしく、どちらも期待以上の味だった。店の方に「どちらも手作りなんですか」と尋ねると、「できるだけ地元のものを使ってます」と誇らしげに答えてくれた。その一言に、この土地の豊かさが凝縮されているように感じた。
そして最後に訪れたのが、有田温泉。湯に足を入れた瞬間、思わず「これは違う」と感じた。ねっとりとした感触が肌にまとわりつき、湯上がり後もしっとりとした余韻が残る。浴室で一緒になった地元の方が、「有田の湯はね、他とはちょっと違うやろ」と話しかけてきた。「確かに、今までで一番印象に残る泉質です」と答えると、「そう言ってもらえると嬉しかね」と笑ってくれた。
帰りには、ギャラリー有田に立ち寄り、2,000客を超える珈琲カップの中からお気に入りを選びながら、名物の呉豆腐料理を味わった。そしてもう一軒、どうしても寄ってみたかったのが、ごどうふのたかはしだ。
店先に入ると、優しそうなご主人が「遠くからですか」と声をかけてくれた。「○○からです」と答えると、「それはありがとうございます。有田のごどうふはね、昔からの味を大事にしとるんですよ」と静かに語ってくれる。勧められるままにいただいたごどうふは、もっちりとした独特の食感で、ほんのり甘みがあり、どこか懐かしい味わいだった。「これは温泉のあとにぴったりですね」と言うと、「身体にやさしかけんね」と笑顔が返ってきた。その一皿に、この土地の風土と人の想いが詰まっているように感じた。
こうして巡った西九州の温泉は、どれも軟水ならではのやわらかさを持ちながら、それぞれに個性があった。その中で、私にとって最も印象深かったのは、やはり有田温泉の“ねっとり感”だった。
温泉の湯、土地の食、そして何よりも地元の人たちとの何気ない会話。そのすべてが重なり合い、今回の旅は単なる温泉巡りでは終わらなかった。身体だけでなく、心までほどけていくような時間。そんな旅が、西九州には確かにある。
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