今年の春、車で熊本市を訪れた。日帰りでもよかったのかもしれないが、どこかでもう少しこの町の空気に触れていたいと思い、一泊することにした。
昼間に訪れた熊本城は、青空の下で静かにその存在感を放っていた。復旧の途中にあるその姿は、未完成であるがゆえに、かえって強さを感じさせる。不思議なもので、人も町も、完全でないからこそ、どこか親しみが湧くのかもしれない。
夕方、宿にチェックインして少し休んだあと、外へ出た。せっかくの一泊だ。地元の空気を感じられる場所に行きたいと思い、あてもなく歩き始める。賑やかな通りから一本入った細い路地に、小さな灯りを見つけた。暖簾のかかったその店は、いかにも地元の人が集まりそうな佇まいだった。

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思い切って暖簾をくぐると、カウンターと小さな座敷だけの、こぢんまりとした居酒屋だった。
「いらっしゃい」
店主らしき男性が、やさしい声で迎えてくれる。
カウンターに腰を下ろし、とりあえず地元の焼酎を頼んだ。ほどなくして出てきた一杯は、どこか丸みのある味わいで、身体の中にじんわりと広がっていく。
しばらくすると、隣に座っていた常連らしき男性が声をかけてきた。
「観光ですか?」
そう聞かれ、長崎から車で来たこと、一泊して明日帰ることを話した。
「いいですねえ、車でふらっと来る旅。熊本はどうですか?」
その問いに、うまく言葉が見つからなかった。ただ、「落ち着きますね」と答えると、彼はうなずいた。
「そうたい。派手さはなかけど、住むにはよかところです」
その後、話は自然と広がっていった。仕事のこと、家族のこと、昔の熊本の話。どれも特別な話ではないが、不思議と耳に心地よい。
店主も時折会話に加わりながら、料理を出してくれる。馬刺しや煮物など、どれも素朴でありながら、丁寧に作られているのが伝わってくる味だった。
「初めて来た人でも、こうして話せるのがいいですね」
そう言うと、隣の男性は少し笑って、
「酒の力もありますけどね」と返した。
確かにそうかもしれない。それでも、この距離の縮まり方は、単に酒だけのせいではない気がした。この町の人の持つ、ほどよいあたたかさが、そうさせているのだろう。
気づけば、店に入ってからずいぶん時間が経っていた。帰り際、店主が「また来てくださいね」と声をかけてくれる。隣の男性も、「次はもっとゆっくり」と笑っていた。
店を出ると、夜の空気が少しひんやりとしていた。ほろ酔いのまま歩く熊本の夜は、昼間とはまた違った静けさがある。遠くで聞こえる話し声や、かすかな灯りが、どこかやさしく感じられた。
旅先での一夜。名前も知らない人たちとの、ほんのひとときの会話。それでも、その時間は確かに心に残る。
翌朝、車に乗り込みながら、ふと昨夜のことを思い出した。またあの店に立ち寄ることがあるだろうか。おそらく、簡単には訪れないかもしれない。それでも、あの時間があったという事実だけで、この旅は十分に豊かなものになった。
熊本の夜は、静かに、しかし確かに人と人の距離を近づけてくれる。そんなことを感じながら、私はゆっくりと帰路についた。

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